見えなくても見える。それも鮮明に

S氏に誘われてSPIRAL HALLで4日間だけ上映された「耳で視る」映画を観た。

Invisible Cinema
Sea, See, She まだ見ぬ君へ
evala/See by Your Ears

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深海生物のようなビジュアル(耳にも見える・・・)

2020年に幕を開けた公演は、口コミで一気に広がり追加公演まで開催されたそう。今回は第24回文化庁メディア芸術祭のアート部門で優秀賞を受賞したことから凱旋公演を行うことになったらしい。演劇やインスタレーション作品は特に、評判を聞いてから行こうと思ったら終わってたり、予約が取れないパターンが多いのでこういった機会に感謝。誘ってくれた友人Sにも大感謝。

スパイラルの3階へエレベーターで登ると、結婚式よろしく簡易的に設置された受付が待ち受けていた。検温や消毒を済ませると、長めの注意事項。「目を開けているのか瞑っているのかわからないほどの暗闇なので、感覚が繊細な方は体調を崩される場合があります。大丈夫ですか?」大丈夫ですと即答した。これから宇宙空間に放り出されるかのような言い回しにドキドキする。

スパイラルホールは小劇場のような趣で、黒で覆われた天井高の空間はスモークで満たされていた。巨大なスクリーンと対面するかたちでホール中央に並べられた椅子に座り、開演時刻が訪れるのを待つ。注意事項が再度音声で伝えられた後、会場内は暗転。強い光の点滅が上映開始の合図だった。

音だけの映画をストーリー立てて言葉にするのは難しい。自分が驚いたのは、暗闇の中で水の流れる音や獣のうめき声、環境音、機械音を聴くだけで、脳内には色鮮やかな映像が浮かび上がり、映画を視ることができたことだ。霧がかった山頂や、熱帯植物が生い茂るジャングル、人が足取り軽く水中へ沈んでいく湖畔を確かに自分は視た。しかし、自分と同じ映像を視た人間はこの世に一人も居ないだろう。あれだけはっきりと、カメラの動きまで説明できるのに、その映像はどこにも存在せず同じものは二度と見られない。寝床で静かに目を覚ました朝に、やけにはっきりと覚えている夢の情景を記憶するようになぞるのと似ている。この映画の音に触発されて脳が自分に視せた映像も、これまで自分が生きてきた中で、映画や実際の視覚情報から得た蓄積されたイメージの変形に過ぎない。それが、何の存在も網膜に感じさせない暗闇によって、半ば強制的に引き出された。その正体は、危機を回避するために音から状況を察知させる、案外動物的な機能なのかもしれない。

環境音の重なりが音から音楽に変わるとき、自分の脳内はVJが披露するような抽象絵画の動的なペインティングを連想していた。自分の思うままに音を楽しんでいた時、ついに自分が瞼を閉じていたことに気付いた。それまで目を開けているつもりでいたので、いつから自分が目を閉じたのか全くわからない。焦りながら瞼を上げると、目の前のスクリーンにうっすらと光が映っているのが見えた。光の欠片と形容できるような何かの断片がゆっくりと形を変えていた。そうしてぼんやりと佇む光とクライマックスを告げる音楽のあいだに立っているうちに、音は再び水辺へと移動し、エンドロールが流れ始めたのだった。

静かな暗闇の中で自分という存在を喪失するような体験かと思いきや、むしろ自分の中に存在した色鮮やかなイマジネーションを再認識するような映画体験だった。余談になるが、自己の存在が不確かなものになるインスタレーションといえば、2019年にTATE MODERNで開催されたOlafur Eliasson「In Real Life」のDin blinde passager[Your blind passenger]という作品が自分にとって最も刺激的な体験だ。(いつかちゃんと感想を書き残したい・・・)

youtu.be

 

わたしたちは、evalaがテクノロジーによって作り出した真暗な聴覚空間に投げ出され、音によってのみ、世界をいま一度とらえ直す。それは既存の視覚的なイマジネーションにとらわれない、「見ることができない」イメージ体験となることだろう。

 

ICCの主任学芸員、畠山実氏がこの作品に寄せて書いているコメントの通り、「世界をいま一度とらえ直す」体験ができるこの映画。同じ体験をしている個人個人が全く異なる解釈を得られることが、この社会において見失いがちな自分の存在の唯一性を高めるきっかけになると感じた。

 

Sea, See, She - まだ見ぬ君へ

 

ヨハネは、はじめにことばがあった、と伝えた。
ことばとは、ロゴスであり、世界理性である。

わたしははじめにあったのは「波」だとかんがえる。

波動、波長、波浪、海。

ゆらぎ振動するその波、そのもののことである。

新たな物理学が紐解いていくように

はじめから世界は終わりの無い波でひたされていて、いまもそれは終わりがない。

世界のはじまりは、ことばや理性によって励起されたものではなく、

そこにただ波が生じたのであり、

もしかしたらはじまりさえもなく、

世界はただ波が響きあう只中に今も昔もあるのでは、と考えるのだ。

実際、世界は波でできている。

星々も、わたしたちの体でさえも。

世界に浸されている波。

世界に満ち満ちている波。

その中で我々は生まれた。

このおおくの波のなかでもっとも知覚しやすいもの、それは音と光である。

かの人が音楽を奏でる時、

それはその世界に満ちた波のゆらぎが操作され電波されるのであるが、

その意味において音楽はまったくもって空間である。

その空間の中で、いま世界の原初、母なる胎内の音が鳴り響こうとしている。

対して映像なるものは、

光という波の反射の記録であるが故に、時間である。

いま、時間芸術とされる光と音の関係を逆転させて、

いやもしかしたらその本来の本質に立ち戻って、

我々は、我々自身についての物語を奏でてみようと思っている。

 

暗闇という漢字が音という要素によって成立しているように、

いま我々も、幼子が母に物語られ眠りの暗闇に落ちるその瞬間のように、

世界のはじまりとおわりに耳を傾けよう。

そのとき、わたしたちは原初からある波の中でゆらぎ、

暗闇の中に光をみつけるのだ。

 

文・関根光才

題・evala