水の庭

墨田区の北條工務店となりで開催されている坂本龍一と高谷史郎によるインスタレーション「water state 1」を見に行った。

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展示入り口の写真。見切れてるのは巨大扇風機(感染症対策)

Twitterで流れてきたことがきっかけで気になっていた展示。1時間につき10組という狭い門に慄いていたが、枠が増設したタイミングで奇跡的に予約することができ、足を運ぶことができた。

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この「water state 1」はTokyo Tokyo FESTIVALスペシャル13『隅田川怒涛』という催しのプログラムの内のひとつ。「Tokyo Tokyo FESTIVAL」は"オリンピック・パラリンピックが開催される東京を文化の面から盛り上げるため、多彩な文化プログラムを展開し、芸術文化都市東京の魅力を伝える取組"らしい。へ〜。「隅田川怒涛」は隅田川をひとつの舞台と見立てた音楽とアートのフェスティバルだそう。

この作品自体は2013年に坂本龍一ダムタイプの高谷史郎と共同で制作したものらしい。水滴を制御し自在に落下させることができる装置はYCAM InteLabの開発によるもの。この機会を逃しても10月8日から2022年1月30日までYCAMで展示されてるみたい。気になった人は行ってみるといいと思います。

前置きが長くなったけどここから感想。

会場に到着すると手作りの消毒スプレーシステムがお出迎え。建物内に入ると、そこはトタンでできた町工場のような外景からは想像できない静寂のための空間だった。厚めの白い壁にすこしだけふかふかした質感の床。中央には水が張られた立体があり、その周辺には隅田川の源流である秩父で採取された岩が鎮座している。その周りに一定の間隔を空けて立っている10名ほどが上演時刻を待っていた。部屋中央にある立体の表面の水は、ぴんと張られたテーブルクロスのような緊張感を保って整然としている。水は鏡のように会場の風景を反射し、壁の白と天井の黒が水面に非現実的な直線を写し描いていた。

上演時間は約30分間と意外と短い。前半は金属質な音と共に天井の装置から水滴が落ちてきて水面を揺らし、後半は水を張っている立体のふちが振動して人工的な波を作り出す。

どちらも瞑想のような、感覚的に気持ちの良い体験で、水面を観ていると吸い込まれるような感覚に襲われた。結婚式より葬式関係の行事に出ることのほうが多い自分のもっぱらの楽しみは木魚の音と一定の音圧で発し続けられる般若心経の音なのだが、それを聞き続けた時と同じような、頭のうしろのほうがぼうっとする感覚に近い状態になった。音に呼応するように落ちる水滴が広げる輪をじっと眺めるだけの時間。会場内の微妙な光量の変化も没入感をより強く与えた。

均一な高さから落とされる水滴は、どれも同じ円を描いて水面の水平に混ざるように消えていく。水面の揺れ方からは数式のような美しさを感じた。

"「本当に正しい証明は、一分の隙もない完全な強固さとしなやかさが、矛盾せず調和しているものなのだ。たとえ間違ってはいなくても、うるさくて汚くて癇に障る証明はいくらでもある。分かるかい? なぜ星が美しいか、誰も説明できないのと同じように、数学の美を表現するのも困難だがね」"

小川洋子博士の愛した数式 』(新潮文庫)より

現れては消え、隣で広がる円と重なり、互いに影響を及ぼし合い、異なる弧を描いてまた消えていく。人類にとって必要不可欠な物質であり、最も身近な存在でもある水。人工的に作られていないそれがコンピューターによって意図されながらも、自らの性質から規則正しい模様を描いては消えるのが不思議な光景だった。表面に現れる模様たちはCGで容易に作れそうなほど人工的な色を帯びているのに、目の前で現実に起きて、現象として横たわっている。デジタルで制御されて人為的に演奏を繰り返すアナログな物質は変幻自在なロボットのようにすら感じた。

前半の金管楽器のような電子音に合わせて水面が踊る風景とはうってかわって、後半は機械の低い振動音だけが会場に響いていた。音とは空気中の振動である。その音がリアルタイムで自らの形を作り出していたのが面白かった。赤血球が血液の中を通過する時のイメージ映像のようなそれも、普段は視認できない細胞の動きが可視化されたように思え、ミクロとマクロが逆転したかのような錯覚を覚えた。会場内の色彩が白と黒という対象的な色に限定されているので、環境を反射する水面の地と図の色が反転する様がさらに美しかった。

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今回の作品で使用した水は隅田川の水を汲み取り濾過を施して使用。作品で使用する「石」は隅田川の本流である荒川の源流の秩父より、古くは約3億年前の石を採取したものらしい。

登山をはじめて石や水、森林をより身近に感じるようになったからか、過程のレポートも面白かった。
【レポート】「water state 1」取水編
【レポート】「water state 1」石選定〜採集〜展示編


高谷史郎氏による作品解説の動画はこちら

youtu.be

興味ある方はぜひ。

 

 

見えなくても見える。それも鮮明に

S氏に誘われてSPIRAL HALLで4日間だけ上映された「耳で視る」映画を観た。

Invisible Cinema
Sea, See, She まだ見ぬ君へ
evala/See by Your Ears

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深海生物のようなビジュアル(耳にも見える・・・)

2020年に幕を開けた公演は、口コミで一気に広がり追加公演まで開催されたそう。今回は第24回文化庁メディア芸術祭のアート部門で優秀賞を受賞したことから凱旋公演を行うことになったらしい。演劇やインスタレーション作品は特に、評判を聞いてから行こうと思ったら終わってたり、予約が取れないパターンが多いのでこういった機会に感謝。誘ってくれた友人Sにも大感謝。

スパイラルの3階へエレベーターで登ると、結婚式よろしく簡易的に設置された受付が待ち受けていた。検温や消毒を済ませると、長めの注意事項。「目を開けているのか瞑っているのかわからないほどの暗闇なので、感覚が繊細な方は体調を崩される場合があります。大丈夫ですか?」大丈夫ですと即答した。これから宇宙空間に放り出されるかのような言い回しにドキドキする。

スパイラルホールは小劇場のような趣で、黒で覆われた天井高の空間はスモークで満たされていた。巨大なスクリーンと対面するかたちでホール中央に並べられた椅子に座り、開演時刻が訪れるのを待つ。注意事項が再度音声で伝えられた後、会場内は暗転。強い光の点滅が上映開始の合図だった。

音だけの映画をストーリー立てて言葉にするのは難しい。自分が驚いたのは、暗闇の中で水の流れる音や獣のうめき声、環境音、機械音を聴くだけで、脳内には色鮮やかな映像が浮かび上がり、映画を視ることができたことだ。霧がかった山頂や、熱帯植物が生い茂るジャングル、人が足取り軽く水中へ沈んでいく湖畔を確かに自分は視た。しかし、自分と同じ映像を視た人間はこの世に一人も居ないだろう。あれだけはっきりと、カメラの動きまで説明できるのに、その映像はどこにも存在せず同じものは二度と見られない。寝床で静かに目を覚ました朝に、やけにはっきりと覚えている夢の情景を記憶するようになぞるのと似ている。この映画の音に触発されて脳が自分に視せた映像も、これまで自分が生きてきた中で、映画や実際の視覚情報から得た蓄積されたイメージの変形に過ぎない。それが、何の存在も網膜に感じさせない暗闇によって、半ば強制的に引き出された。その正体は、危機を回避するために音から状況を察知させる、案外動物的な機能なのかもしれない。

環境音の重なりが音から音楽に変わるとき、自分の脳内はVJが披露するような抽象絵画の動的なペインティングを連想していた。自分の思うままに音を楽しんでいた時、ついに自分が瞼を閉じていたことに気付いた。それまで目を開けているつもりでいたので、いつから自分が目を閉じたのか全くわからない。焦りながら瞼を上げると、目の前のスクリーンにうっすらと光が映っているのが見えた。光の欠片と形容できるような何かの断片がゆっくりと形を変えていた。そうしてぼんやりと佇む光とクライマックスを告げる音楽のあいだに立っているうちに、音は再び水辺へと移動し、エンドロールが流れ始めたのだった。

静かな暗闇の中で自分という存在を喪失するような体験かと思いきや、むしろ自分の中に存在した色鮮やかなイマジネーションを再認識するような映画体験だった。余談になるが、自己の存在が不確かなものになるインスタレーションといえば、2019年にTATE MODERNで開催されたOlafur Eliasson「In Real Life」のDin blinde passager[Your blind passenger]という作品が自分にとって最も刺激的な体験だ。(いつかちゃんと感想を書き残したい・・・)

youtu.be

 

わたしたちは、evalaがテクノロジーによって作り出した真暗な聴覚空間に投げ出され、音によってのみ、世界をいま一度とらえ直す。それは既存の視覚的なイマジネーションにとらわれない、「見ることができない」イメージ体験となることだろう。

 

ICCの主任学芸員、畠山実氏がこの作品に寄せて書いているコメントの通り、「世界をいま一度とらえ直す」体験ができるこの映画。同じ体験をしている個人個人が全く異なる解釈を得られることが、この社会において見失いがちな自分の存在の唯一性を高めるきっかけになると感じた。

 

Sea, See, She - まだ見ぬ君へ

 

ヨハネは、はじめにことばがあった、と伝えた。
ことばとは、ロゴスであり、世界理性である。

わたしははじめにあったのは「波」だとかんがえる。

波動、波長、波浪、海。

ゆらぎ振動するその波、そのもののことである。

新たな物理学が紐解いていくように

はじめから世界は終わりの無い波でひたされていて、いまもそれは終わりがない。

世界のはじまりは、ことばや理性によって励起されたものではなく、

そこにただ波が生じたのであり、

もしかしたらはじまりさえもなく、

世界はただ波が響きあう只中に今も昔もあるのでは、と考えるのだ。

実際、世界は波でできている。

星々も、わたしたちの体でさえも。

世界に浸されている波。

世界に満ち満ちている波。

その中で我々は生まれた。

このおおくの波のなかでもっとも知覚しやすいもの、それは音と光である。

かの人が音楽を奏でる時、

それはその世界に満ちた波のゆらぎが操作され電波されるのであるが、

その意味において音楽はまったくもって空間である。

その空間の中で、いま世界の原初、母なる胎内の音が鳴り響こうとしている。

対して映像なるものは、

光という波の反射の記録であるが故に、時間である。

いま、時間芸術とされる光と音の関係を逆転させて、

いやもしかしたらその本来の本質に立ち戻って、

我々は、我々自身についての物語を奏でてみようと思っている。

 

暗闇という漢字が音という要素によって成立しているように、

いま我々も、幼子が母に物語られ眠りの暗闇に落ちるその瞬間のように、

世界のはじまりとおわりに耳を傾けよう。

そのとき、わたしたちは原初からある波の中でゆらぎ、

暗闇の中に光をみつけるのだ。

 

文・関根光才

題・evala

 

タイトル未定

テスト

テスト
テスト

テストだお


何故今更ブログを始めようと思ったかというと
1.自分の備忘録のため
2.現在に集中するため
この2点に尽きる。

特に後者は重大な問題で。先へ先へと進む思考を飼いならして、今現在に集中できる環境を強制的に作るのが思考の言語化の効能だと考えている。拙くていいから臆せず書くこと。引き出しの中にそっとへそくりを忍ばせる、くらいの気持ちで進めてみる。(普段使わない引き出しにひっそりと鎮座するそれは硬貨であろうと紙幣であろうと少しだけ頬が緩むよね。ないですか?)

UIとしてはtumblrが最適解かなと思いつつ、はてなブログにしたのは記事の下部に関連記事を表示してくれるから。Youtubeの関連動画とかamazonの関連商品とかすごい見ちゃうのよね。AIからすると簡単なお仕事なんだろう。ブログのデザインはとりあえず始めてみて適宜好きなように調整するのが吉とのことなので初期はプレーンでいきます。